2015年8月31日月曜日

420)根無し草(デラシネ)&関西出張のお知らせ

シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の楽歩愛真です。
なぜ、どうしてとの疑問を持ち、納得のできる答えを知りたいと考えている人にとって、精神分析という対話療法は有効な方法です。
今日は、「根無し草(デラシネ)&関西出張のお知らせ」 について書きます。
デラシネとは、辞書によると「根無し草のことで、転じて故郷や祖国から切り離された人」とのことです。ここではこの意味を転じて、「心の居場所から切り放された人=居場所がないと感じている人」として考えてみることにします。

「どこにも自分の居場所がない」
このような表現を聞くことがあります。
物理的に居場所と定められた場所があっても、その本人が自分の居場所だと実感しない限り、意味をなしません。
つまり、居場所があるとは、「ここが自分の居場所だ」と感じる場所があることを指します。この意味において、根無し草(デラシネ)とは「心の居場所がないと感じている人」となります。
ここが自分の居場所だと感じるとはどういうことでしょう。
居場所があるとは、自分が居る居ないに関わらずその場所が確保されているということ。
いつでも自分の座る場所が存在するということではないでしょうか。
自分が気ままに行っても、常にその場があること、あるいはそのように思えること。
もっというと、自分の気ままにしても許される場があるということ、歓待される場があることだと考えます。
たとえ離れていたとしても自分には帰る場所があると思える。 このような場があると思える時、人は「自分の居場所がある」というのでしょう。
それとは逆の場合を根無し草(デラシネ)といいます。しっかり根を下ろしたいと切望しつつ、どこにも自分の居場所がないと感じ、結果的に放浪することとなる。
以上のことから根無し草(デラシネ)人には「定着」という言葉の意味が理解できない可能性があります。なぜなら、「定着」とはしっかりとつくこと、一定の場所に落ち着くことという意味だからです。

では、定着するにはどうしたらいいのでしょう。
それにはまず、自分の場所(席)を作ってもらうことからスタートです。
すべてはそこからです。それができないとその先はないといっても過言ではないでしょう。 
蛇足ですが、「定着」以外にも「着」のつく熟語を調べてみると、密着、帰着、決着など興味深いものが出てきます。
興味のある方は一度検索してみてください。
______________________________________
≪9月度関西出張のお知らせ
*1日(火)~3日(木) 大阪市・和歌山市
面談・インテグレーター養成講座・≪人間講座-象徴界に生まれる≫・フリートーク(テーマは『分かち合う』 )
*8月31日(月)・9月4日(金)埼玉県大宮市
詳しくは、シニフィアン研究所のHP http://signifiant-lab.com/  Twitter https://twitter.com/rakuhomanami、を参照、連絡ください。

2015年8月3日月曜日

419) 8月度関西出張のお知らせ

シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の楽歩愛真です。
なぜ、どうしてとの疑問を持ち、納得のできる答えを知りたいと考えている人にとって、精神分析という対話療法は有効な方法です。
今日は、「8月度関西出張のお知らせ」です。
全国的に猛暑が続いています。
今月も関西方面へ出張します。
近隣の方、関心のある方は、この機会を活用ください。
・3日(月) 19:00~21:00 大宮
・4日(火)~6日(木) 和歌山市
・6日(木)18:00~21:00 大阪市難波周辺
・フリートーク 6日(木)10:00~12:00
テーマ 『自己愛~自立』
・5日(水)10:00~12:00   ≪人間講座-象徴界に生まれる 
人として生まれるとは、社会参入するとはどういうことなのか。そして社会、家庭内での男女の性差と役目は何か。女性化する男性が多いのはなぜか。それらを中心に考えます。 
・7日(金)7:30~10:30 大宮
詳細はメール、電話、Twitterで直接お問い合わせください。 
シニフィアン研究所 HP http://signifiant-lab.com/Twitterはこちらです https://twitter.com/rakuhomanami
=========================================
「自分と他者は違う」
当たり前のことだと思うかもしれないけれど、そうでもない事象をみる。
相手のためを思ってしたのに、うまくいかない場合がある。
そんな場合、相手のためだと思ってしたことは、はたして相手が望んだ(依頼した)ことだろうかと考えてみる。
ややもすると自分の思いであることが多い。
自分だったらこうして欲しい、だから相手もきっとそうして欲しいに違いない。
このように考えてしたことではないだろうか。
それは自分の考えであって、相手の考えではない。
それが一致したときは喜ばれるかもしれないが、違っていたら有難迷惑となりかねない。
これらの根底には「自分と相手は同じ」という考えがあるのでは?
自分と他者は違っているとの前提であれば違った言動となるのではないだろうか。