2013年4月20日土曜日

335)愛の証―いつも傍にいる

シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析という対話療法で自己(無意識)を知り、必要に応じて書き換えていきます。
そうすれば、不安は安心に変わり、生きる希望が湧いてくることでしょう。
今日は、「愛の証―いつも傍にいる」について書きたいと思います。
「愛」の定義はなかなか難しいですが、
フランスの精神分析医、ジャック・ラカンは「愛とは持っていないものを与えることである」と言いました。
この視点から、特に幼少期の子どもが求める愛を中心に考えてみたいと思います。
そして、≪子どもが求める「愛」とは、母が常に目の前に居ることを要請することである。≫
ということを考えてみます。

ご存知のように、生理的欲求を自ら満たすことのできない乳幼児は、
自分を世話してくれる他者(ここでは母と呼びます)に絶対的に依存しています。
つまり、常に母が傍に居て、世話をしてくれることが必須だといえます。
これが、すべての人の原初の姿だと言っても過言ではないでしょう。

そして、成長と共に言葉を覚えて自ら使うようになっても、
この原初の環境の再現を求め続けると言われています。
これを「母の愛の要請」と呼びます。

どういうことかというと、
例えば、子どもがおねだりをするのは、そのものを求めているのではなく、母が傍に居てくれることを求めているということです。
「おもちゃ」を欲しがるのは、「おもちゃ」そのものを欲しいのではなく、
母が自分の目の前に居て、温かい眼差しを向け、心を寄せてくれることを望んでいることを指します。
ですから、
単にその「おもちゃ」を与えるだけでは、子どもは満足しないことでしょう。
次から次へと要求し続けるかもしれません。
それは「ママ違うよ、僕が欲しいのはおもちゃじゃない、ママが傍に居てくれることだよ」とのメッセージではないでしょうか。
このように考える視点です。
一度、確かめてみてはいかがでしょう?

あるお母さんに試してもらいました。
子どもさんが何か言ったら、手を止めて、腰を落とし、子どもさんと目線を同じ高さにして目を見つめて、
優しい声で「なあに?」と聞いてあげてくださいと。
するとどうなったでしょう?
子どもは、ニコッとして
「何でもないよ」と言って満足したような顔になり、また遊びに夢中になったそうです。

何となく想像できますよね。
それだけではないのです。
実は、このようなことは幼少期はもちろん、
思春期の子どもや成人した大人にも有効のようなのです。

これはどういうことでしょう。
それは、身体年齢に関係なく、誰もが乳幼児期に体験したであろう原初の姿の再現を求めている。
このように考えられるのではないでしょうか?

ですが、これらのことはまず不可能に近いことでしょう。
母だけでなく、すべての人は忙しいのですから。
特定の人の傍に常に居ることは不可能でしょう。
エネルギーも時間も体も限界がありますから。
だから「愛とは持っていないものを与えることである」とラカンは言ったのではないでしょうか。

そんなことは知っている。
それでも求め続けている。
愛する人に対して、愛の証を求めている。
それが伝わらないから、理解されないから必死に訴えようとしているのが、
病気、けが、非行、問題行動などであり、時には自殺でもあると思うのです。

愛の証、それは自分の愛する人が常に傍にいてくれることを要請し、実現することであり、愛を与えることは、愛する人の傍に常に居ることではないでしょうか?
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