2012年9月12日水曜日

273)孫は可愛いのはなぜか―自己の連続性

シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
精神分析という対話療法で心身の悩み相談をしています。

           
今日は、「孫は可愛いのはなぜか―自己の連続性」 について書きたいと思います。

「わが子も可愛いが、孫の可愛さはまた格別だ」
との声をよく耳にするけれど、なぜなのかと考えてみました。
かつて「孫」という歌が一世を風靡したようです。
それは、記憶のない自分の空白の時間を埋めてくれるものだから、ではないでしょうか。

私たちは、自らの記憶をたどってゆくと、
3歳以前の記憶はよほどのことがない限り、途中で途切れてしまう。
ましてや、誕生から1歳2歳などはほぼ思い出せないでしょう。
親や周りの人の語らいやビデオや写真などの記憶媒体に頼るしかない。
それらを見ても、実感として感じられないかもしれません。

そんな時、目の前に「孫」と世話する母親を見る機会が現れるとします。
一歩離れた場所から、それらを観察する機会を持つことになるのです。
その光景が、「おじいちゃん、おばあちゃん」と呼ばれる人の心にどのように映るでしょうか?
それらを想像してみたいと思います。


自分では生命さえも維持することは不可能に近い、寄る辺なき存在。
そして、その存在をかいがいしく世話する母親=わが娘(嫁)
そんな光景を目の当たりにし、
『自分も、わが母からあのような眼差しで、世話をしてもらったに違いない』
『自分も、あのようにぐずったり、笑ったりしていたに違いない』
『あのように誰かの世話を受けなければ、片時も生きてゆけなかった自分であった』etc
そこに自分自身の姿を重ねてみることでしょう。

孫のように世話してもらったかもしれない、
孫のようには世話してもらえなかったかもしれない。
いずれにしても、そこには
寄る辺なき存在の自分、世話を必須としていた自分が居る。

その時代が間違いなく自分にもあった、だから今の自分が存在していることだけは、間違いがない。
連続していることは疑いようがない事実としてある。
信じたい、間違いがない事実として受け入れたい。
だけど、自分の記憶は途切れてしまっている。
このようなジレンマとも呼べるものが根底にあるのではないでしょうか。
それがバネになって
今自分の目の前に居る血の繋がった「孫」を観ている。
その「孫」こそが、記憶にない自分の歴史を埋め、繋いでくれる。
このような視線が潜んでいるように思うのです。
だからこそ、わが子とは違った可愛さがひしひしと込み上げてくるのではないでしょうか。

誰もが、信じていることでしょう。
「自分は間違いなく連続した時間の中に生きている。」と。
ひょっとしたら、不連続な時を生きているかもしれない不安を感じているのかもしれません。
それを問いかけないように必死になっているのかもしれません。


逆に、「孫」が可愛いと思えるのは
この不安があるからなのかもしれません。

この不安が人を
「生きるとはなにか」
「何のために生きているのか」
との問いに導くのかもしれません。

「孫」は可愛いと言われることから
このようなことを考えてみました。


興味を持たれた方はシニフィアン研究所のHPをご覧ください。http://signifiant-lab.com/
思春期には特にこのような問いかけをするようです。
思春期の悩みも参照ください。http://signifiant-lab.com/eatingdisorder/

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